マンガは、いかに描くかということより、いかに省略するかが大事なテクニックとなるアートだ。っていうか、だいたいアートってそういうもんで、上手に省略ができるかどうかがプロとアマの分かれ道になるんだけど。「テクニック」などとゆー単語を不用意に使うからいかんのだな。むしろ「定め」とか「制限」と言い換えたほうがよさそうだ。
映画やドラマといった映像表現では、カメラが連続した動きをとらえることができる。しかし紙媒体という平面の上で展開されるマンガは、動きの連続性を表現することができない。映画のフィルムを、1コマずつハサミでカットして、紙の上に並べていったとしたら、1時間あまりの短い尺の映画でも、ものすごい量のページ数になるだろう。
トビラも含めて20ページ前後という制限のある連載マンガでは、そんなわけにはいかない。というより、フィルムを並べたように動きを逐一描き込んでも無意味だ。似たような絵がずらーっと並んでいるだけで、おもしろくもなんともない。マンガでは、ポイントポイントだけを表現し、あとはすべて省略するほうが、動きが出るのだ。
省略のテクニックは、文字にもおよぶ。フキダシという、独特の方式を用いてセリフを喋らせるのがマンガだが、それだけに、詰め込める情報量には厳しい限界がある。
江川達也の作品で、文字を読み取れないほどびっしりとフキダシのなかに書き込み、その人物が瞬間的に膨大な思考を巡らせている様子を表したギャグがあった。古いところでは、赤塚不二夫が、フキダシのなかにキャラクターを描き、セリフをその外に書くという、実験的というか投げやりというか、変なことを試みていた。マンガ家のなかには、このフキダシの存在を、かなり重い足枷に感じている人もいるらしい。
しかし、高橋留美子には、そういったアバンギャルドは期待できない。この作家は、三遊亭円生の古典落語のようにトラディショナルでオーセンティックなのだ。「ちゅどーん」「ぐもももーん」といった独特の擬音も、実はオリジナルとはいいかねる。田村信あたりが元祖だろう。高橋留美子は、はっきりいってギャグ・クリエーターとしては平凡だ(だから悪いとは言ってないぞ。誤解のないように)。この人はやっぱり、ストーリーテラーなのである。ストーリーで勝負できる自信があるから、前衛的な表現形態を試したり、良識を破壊するようなギャグをひねり出したりする必要がないのだろう。
フキダシの扱いも、文字数の制限があるのなら、その制限に忠実な姿勢で従おうとしているかのようだ。全般的に、『めぞん一刻』の登場人物たちはセリフが短く、長広舌をふるう場面は皆無に近い。ほとんど唯一といっていいのが、会社の面接に向かう途中で産気づいた妊婦につかまり、すっぽかすことになった五代のもとへ、妊婦の旦那さんが尋ねてくる場面。どのようにして、恩人である五代の住みかを調べたか、長々と説明するシーンだ(しかもその説明、かなり論理に無理がある)。という例を除けば、少ないセリフで話の流れつくっていくことで生まれる軽快なテンポは、終始一貫して保たれる。
セリフだから会話体であるわけだが、それもおおむね自然だ。マンガ家にもセリフの上手な人と下手な人がいる。高橋留美子は上手いと思う。現在連載中の『犬夜叉』のセリフに見られる言葉づかいは、少し幼稚な感じがするが、『めぞん一刻』よりは読者の年齢層がかなり低いはずだから、意図的に平易な言葉を使うように心がけているのだろう。
とくにきっちりしているのは、どのキャラクターに、なにを喋らせるかというセリフの配分だ。主要キャラには言葉足らずなくらい最低限のセリフしか与えず(だから主人公たちはしょっちゅう誤解し合っている)、サブのキャラに状況を客観的な視点から語らせる。ひとつのシーンを、説明的にならずに説明する秀逸な方法で、そしてこれは、コントとか、喜劇のテクニックでもある。
六本木朱美の、毒のあるずけずけとしたもの言いなどは鮮烈だ。嫉妬のあまり自分を見失った響子に対し、「あんたみたいな面倒臭い女から男を取るほど物好きじゃないわよ」と言い放つクールさ! ぞくっとするほどかっこいい。が、このセリフもよく読むと、響子を批判しながら、実は響子の有り様を説明する言葉から成り立っている
のだ。
まだ言い足りない部分が多々あるし、切り込む角度も甘く、しかも偏っていることは自分でもわかっているけれど、このへんでやめておこう。こんな読みにくいエセ評論に、長々とお付き合いいただき、どうもありがとう。