志木巡検 
  志木の「まち歩き」「川歩き」のページ
巡検→巡回してとりしらべること。地質学や地浬学で、現地(フィールド)を見てまわること。
志木の“まち”や川(柳瀬川・新河岸川)歩く参考にしてください。または歩いたつもりなってください。
 
★かっぱ達 ←ここをクリックするとジャンプ
★新河岸川 ←ここをクリックするとジャンプ
★柳瀬川 ←ここをクリックするとジャンプ

INDEXページへ  ←ここをクリックするとジャンプ
かっぱ達
志木市内の河童達を集めています。     写真をクリックすると大きな写真になります。 since 200412
    せせらぎの小径 宗岡銀座付近
このページのヘッダーだよ
    せせらぎの小径 浄水場付近
上から見たお皿、拡大すると正面
    市役所の正面玄関 天水かっぱ
水を出す魚形の蛇口がついています。
志木第二小学校 志木第二小学校 天水かっぱ 
茎がまっすぐ、立ち位置が高い
    志木第三小学校 天水かっぱ
葉っぱには雨樋がつながって
   志木第二小学校 志木第四小学校  天水かっぱ
葉っぱの上に雨樋がない、台座も小さい
宗岡小学校 天水かっぱ
緑色の雨樋が葉っぱにつながる
宗岡第三小学校 天水かっぱ
葉っぱの上に雨樋がない、台座も小さい
宗岡第四小学校
葉っぱの上に雨樋がない、台座も小さい
宗岡中学 天水かっぱ 
玄関前にいます。鎖の雨樋
    宗岡第二小学校
夏みかんの下に天水かっばの葉っぱが
    天水桶の解説
天水かっぱの台座か隣にあります。
エコシティ志木 志木小学校 やっと見つけた2007/11
宝幢寺 宝幢寺  解説
お皿の上には、何がのっているの?  
柳瀬川の潜水河童 柳瀬川で潜水中 2004年12月
いろは親水公園 中洲ゾーン いろは親水公園 中洲ゾーン
いろは親水公園 中洲ゾーン
上の写真と同じ場所だよ
志木駅前のペデストリアンデッキ(公共高架歩廊。立体的に作られた歩行通路。)上
モデルを探してね
志木駅前ロータリー 座っています
志木駅ロータリー 真ん中に立ってます 志木駅前ロータリー 半分見えない
新河岸川堤防下、宗岡四小近く 新河岸川堤防下、宗岡四小近く
二人の関係
TOP▲ ←ここをクリックすると一番前へ
新河岸川の写真   マップから写真を探してください
マップから写真をみることができます。



左の新河岸川マップ@とおなじ範囲(昭和初期)
新河岸川改修工事の途中の様子が解ります
国土地理院旧版地形図 
マップ の破線四角をマウスでクリックしてください。その場所の写真を見ることができます。 上の地形図で北見入樋を探してみよう
マウスで探し当てると入樋の写真が
志木と富士見の市境と河川の旧流路と比べてみよう
お寺や神社の場所は変わらないはずです。
上の地図にいくつ写真が隠れているでしょうか?
TOP▲ ←ここをクリックすると一番前へ
柳瀬川の写真  定点以外の状況   マップから写真を探してください
 
上の地図上の柳瀬川付近の紫色文字付近    にマウスを当ててください。 柳瀬川の写真をみることができます。たくさん見つけてください。
水谷田んぼを254方から 柳瀬川の東上線鉄橋付近
表紙へもどる

TOP▲ ←ここをクリックすると一番前へ INDEXページ

新河岸川の写真 (上のマップに隠れている)

 岡坂橋(浦所)の下流
 岡坂橋(浦所)のさらに下流
 袋原の旧流路(右岸側)
 袋前河岸付近の旧流路(右岸側)
 袋橋より下流(右岸側)
 ポンプ場(右岸側)
 袋の旧流(右岸側、大東ガス裏)
 志木高裏の旧流路
 宗岡四小付近
 宗岡中裏の旧流路
 いるは橋閘門跡
 富士下橋上流
 富士下橋下流
 富士下橋下流左岸
 北見入樋

マップで探したほうが、場所が解って楽しいよ
柳瀬川の写真 (上のマップに隠れている)

 館第一ポンプ場
 志木大橋
 志木ニュータウン付近
 雪の富士見橋
 富士見橋
 水谷田んぼ
 石橋の跡(富士見橋上流)
 館第二ポンプ場
 志木中付近の右岸
 志木中付近
 志木中の遠景(水谷側より)
 水谷田んぼ旧流路(高橋下流)
 高橋
 レダリー付近
 レダリー付近左岸
 志木保育園付近の旧流路
 栄橋より下流
 柏のポンプ
 新河岸川との合流点 

TOP▲ ←ここをクリックすると一番前へ INDEXページ
■志木市
埼玉県南部に位置し、人口6万5千人、面積9000q2、東京近郊25q圏にあり、池袋駅より東武東上線で約20分の東京のペットタウンでもある、武蔵野台地の菓北に位置し、市域は、台地と荒川低地にわかれる。志木市の自然は、荒川、新河岸川、柳瀬川の三本の川と、点在する斜面林、屋敷林であるが、都市化により武蔵野の面影は残り少なくなった。武茂野台地北は荒川、南は多摩川に限られ、台地の等高'線は青梅付近を扇頂として、東に拡がる扇形をしている。台地は関東ローム層に覆われて、その下位に段丘礫層が分布する藺関東回一ム層の層序と地形から、いくつかの段丘面に区分されている。

■荒川
荒川奥秩父西部の甲武信ケ岳(ム475m)に水源を発し、秩父盆地を経て寄居付近で関東平野に出て東京湾に注ぐ、長さ169qの河川。かっては、名前のとおり「荒ぷる川」として毎年ように氾濫をくりかえしていた。特に明治40,43年には、東京下町に壊滅的な洪水被害をもたらした。それを契機に赤羽岩淵から下流に荒川放水路が開削され、元の下流は、隅田川となった。

■荒川低地
荒川に沿って武蔵野台地と大宮台地に挟まれた西北一東南に細長い低地である。

■新河岸川
川越市から荒川に沿って流れ、下流は隅田川1となって東京湾に注ぐ、江戸時代前期に川越と江戸浅草花川戸結ぷ舟運が開かれ、300年聞、物資や人を運んだ。舟運の荷揚場である「河岸」が23カ所存在し、商工業者が集まり栄えた、肥料・薪、農業物資の仲買商を兼ねる船問屋が萎出現し地域経済の中心となった。舟運は、東上鉄道(東上線)の開通により急激に衰退し、昭和6年に新河岸川の河川改修に伴って廃止された。新河岸川の改修は、大正10年より9ケ年事業として実施され、朝霞市内間木の荒川合流点から赤羽岩淵水門隅田川までの新川開削、九十九曲がりと呼ばれた流れの直線化、掘削、築堤などである。

■柳瀬川
全長20qの新河岸川の最大の支流で、狭山湖(狭山丘陵に水源を発し、志木市で新河岸川に合流する。武蔵野台地の地下水を集めて流れるが、志木市付近では、東京都の流域下水道処理場(清瀬市)の放流水が半分を占めている。また所沢市街地を流れる東川の水質の悪化が著しく、本川の水質にも影響を及ぼしてあり、早急な対策が必要である。下流の富士見市は水子貝塚、志木市には城山貝壕があり、縄文時代には古東京湾がこの付近まで入り組んでいたことが知られている。

■引又河岸
新河岸川河岸随一の河岸として水陸交通の要衝として栄えた。近郊だけでなく保谷や東村山からも二江戸へ運ぷ荷物が集まった。引又では、三と八のつく日に市(引又市)が開かれ、ひろく周辺から商人と購買客が集まり農産物、日用品全般が売買された。旅客用の早舟は、一晩で江戸まで到着し、与野や浦和から歩いてきて舟に乗るものもあつた。

■奥州街道(志木市内の)
甲州道とも呼ばれ甲州街道の日野から清瀬、引又、与野から日光御成街道へ抜ける脇街道である。

■野火止用水
昭和40年まで本町一、二丁目の市場通りの道路中央を野火止用水が流れていた。この用水は「伊豆殿堀」とも呼ばれ、それは知恵伊豆といわれた川越城主・松平伊豆守信綱が自領である野火止台地の灌潮のため開削したからである。川越域主となった信綱は、広漠たる原野であった自領の野火止を開拓して増収を図ろうと、承応2年(1653)に領内の農民54軒を招致して野火止の新田開発に踏み切った。ところが、この辺りは台地のため、井戸を掘るのに25メートルも掘り下げねばならなず、農業用水はおろか飲料水も得難いところだった。
そのころ江戸市民に飲料水として、玉川上水の工事は始まっていた。信綱はこの水を小川村(東京・小平市)から分水することに着目し、この難工事を家臣の安松金右衛門に命じ、承応4年(1655)の3月、わずか40日の短期間で完成させた。
野火止用水の開通によって、取り入れ口の小川村から新座郡引又村(志木市)までの約24キロメートルの沿岸は開発が進み、農業生産カが向上、さらに漕概用水としてだけでなく、水軍の動カや飲料水としても長い聞利用された。

■いろは樋(新河岸川を饅えて宗岡を潤す)
野火止用水は開通後uまらくは新河岸川に流れ込んでいたが、対岸の宗岡地区の潜潮用水にも利用しようと、寛文2年(1662)に宗岡の地頭岡部左兵衛が家臣の白井武左衛門に命じ巨大な架け樋を造らせた。用水はこの樋で新河岸川を渡り、宗岡地区の田畑を穐すことになる。(同時に惣囲堤も築堤)樋は、船の通行を妨げないよう川面から約4,5メートルも高いところに架けられ、四十八個の木樋をっなぎ合わせてあることから「いろは樋」と名付けられた。全230メートルにもおよび、江戸時代に百間樋の名で地域住民に親しまれたという。

■宗岡閘門
河岸川の改修により九十九聞借りと呼ぱれた川を直線化したために下がった水位を、舟を通すために上昇させることを目的として、昭和4年に新設された。水位をあげる洗い堰と舟を通す聞門とがあった。